聞法のワークに取り組んでいると、様々な不審が出てきます。
「仏願の生起本末は物語を聞いているようでとても本当の事とは思えない」
「いくら聞いても疑いの心が無くならない」
「阿弥陀仏がいるとは到底思えない」
「信心獲得出来る気がしない」
「お念仏を真剣に称えることが出来ない」
「本当に悪いことをしているとはなかなか思えない」
「因果の道理や六道輪廻を信じられない」
このような不審に対して先生はこう尋ねます。
「そのような思いがあると救わないという本願ですか?」
そうです、阿弥陀仏の救いは無条件の救いです。私がどんなことを思おうが関係ありません。しかし、何かと救いに条件をつけてしまうのです。自分で条件付きの本願にしてしまったら、それは正確な阿弥陀仏の救いとはいえないのです。
このワークを続けていると、不審を出しても不審が晴れないので、だんだんモヤモヤした気持ちが出てきました。
「こういう思いが出てきたけど、どうせまた救いには差し支えないんだろうな」
「いくら差し支えないと言っても気になっているんだよな、でも差し支えないんだよ、ねぇ?」
納得出来ないのに無理やり納得させたようなモヤモヤが、いつまでもくすぶっているようでした。