本当の親
阿弥陀様は私の本当の親だと言われます。
この世の親のことを本当の親だと思っていても、阿弥陀様が本当の親だとは思えないのが私です。
しかし、ものごころついた時から親だったというだけで、この世の親が本当の親だということを私が確認したことはありません。
では、どうして私はこの世の親を本当の親だと思っているのでしょうか?
それはものごころつく前から現在に至るまで、親らしいことをしてもらったからでしょう。ミルクやオムツから始まり、食事の支度など衣食住の面倒を当たり前のようにしてもらったから今の私がいるといえます。
もちろん親とはいえ普通の人間ですから、理不尽な扱いを受けたり、人によっては酷い仕打ちを受けたという方もあるでしょう。
それでも今こうして世の中でそれなりに暮らしているのは、やはり親に育ててもらったからでしょう。
不完全な人間の親でさえ親で有り得るのですから、苦しみもがいている私を可哀想だと涙を流し、私を苦しみの世界から抜け出させてくれる阿弥陀様が本当の親だということはこの世の親が親である以上に本当のことであるはずなのですが、そう思えないのが私なんだと思います。
思えない私が、思えないまま、阿弥陀様が私の本当の親だと気付かされる時、それが親子の名乗りをあげる時なのだと思います。
南無阿弥陀仏(-人-)
水曜ナイツ
私が聞法させて頂いているアミダサンガ18では、月2回ズームを使った御法話会の他に、毎週水曜日の21時から水曜ナイツがあります。
これはズームで参加出来るフリートークの場で、どの時間から参加しても退出しても自由です。顔出しして会話に参加するも良し、横になりながら聞くだけ参加でも良し、時間が許す限り話すことができます。気軽に参加できるとても楽しい集まりです。
私は翌朝が早いので、21時から22時くらいまで顔出し参加、22時から23時くらいまで聞くだけ参加して退出することが多いです。疲れている時は丸々聞くだけ参加することもあります。
最初の2時間位は光雲先生も参加して下さることが多いですね。最近は先生が、顔出し参加している方一人一人に一週間の様子を聞いてくれます。
実は、これがけっこう大事なんです。
今回私は、信心の沙汰をどのようにすればいいのか分からないという不審を先生に投げかけました。先生はいろいろお話しして下さいましたが、その中で「阿弥陀様はあくあゆさん一人を救おうとして下さっているのですよ」というお言葉が胸に刺さりました。
「私一人のため」
今まで何度も聞かせて頂いているお言葉ですが、ちょっとドキッとしました。「ああ、そうか、私一人のためなんだ」と、まるで初めて聞いたような感じがしたのです。
同じことを何度も何度も聞いているはずなのに、まるでザルで水をすくっているように私には何も残らない、聞いたそばから何を聞いたのかさえも忘れてしまうのです。
ザルでは水がすくえないならどうすればいいのか?ザルは水に漬けておけば乾くことがありません。法の水に浸す、常に仏法を聞ける場に身を置くことが大切なのだと改めて思いました。
まるっきりしみてこないはずの私にしみてくることがある、それもこのような有難いご縁があるからですね。
南無阿弥陀仏(-人-)
年末年始のできごとに思うこと
2023年大晦日、私達家族は妻の実家に帰省をしました。
毎年の恒例行事ですが、いつもとは違うことがいくつかありました。
私達家族は静岡住まいで、妻の実家は埼玉にあります。途中東京にある私の母のお墓参りをしていくのですが、来年は十三回忌ということで、墓前で正信偈をあげさせていただきました。
家族で正信偈をあげるのは久しぶりでしたが、とても良い仏縁だったと思います。
妻の実家で紅白を観ながらの年越し、そして紅白終了間際に家を出て、鐘撞きに行くのも毎年の恒例行事です。
このお寺は妻の実家の菩提寺で、浄土宗のお寺です。年越しには蕎麦や甘酒が振舞われ、新年早々には地元保存会の獅子舞が披露されます。
毎年当たり前のように鐘撞きの列に並び、鐘を撞くだけでしたが、今年は少し心境が違いました。
鐘撞きが始まる前に住職さんとその息子さん達が短いお経をあげるのですが、そのお経の言葉に気付きがありました。
観無量寿経の中のお言葉で、お寺の鐘や本堂にも記されています。このお言葉を聞いた時「あ、真実が伝わっているんだ」と気付いたのです。
ここのお寺の住職さんは南無阿弥陀仏のおいわれや仏願の生起本末、ご信心について説かれる方ではありません。そんな住職さんの口からお経の言葉やお念仏が出てくると、真実が私に伝わってくるのです。
もちろん阿弥陀仏のお心を正しく伝える善知識は必要なのですが、正しく伝え切れない方でも、お寺を守り、お経を唱えて下さったりお念仏を称えて下さることで、正しく伝えるための役目の一端を担って下さっているのだなと思えたのです。
私がどこにいようとも阿弥陀様は私を照らして下さり、念仏称える私を必ず救うと仰っているんですね。
南無阿弥陀仏(-人-)
水曜ナイツ
私が聞法させて頂いているアミダサンガ18では、月2回ズームを使った御法話会の他に、毎週水曜日の21時から水曜ナイツがあります。
これはズームで参加出来るフリートークの場で、どの時間から参加しても退出しても自由です。顔出しして会話に参加するも良し、横になりながら聞くだけ参加でも良し、時間が許す限り話すことができます。気軽に参加できるとても楽しい集まりです。
私は翌朝が早いので、21時から22時くらいまで顔出し参加、22時から23時くらいまで聞くだけ参加して退出することが多いです。疲れている時は丸々聞くだけ参加することもあります。
最初の2時間位は光雲先生も参加して下さることが多いですね。最近は先生が、顔出し参加している方一人一人に一週間の様子を聞いてくれます。
実は、これがけっこう大事なんです。
今回私は、信心の沙汰をどのようにすればいいのか分からないという不審を先生に投げかけました。先生はいろいろお話しして下さいましたが、その中で「阿弥陀様はあくあゆさん一人を救おうとして下さっているのですよ」というお言葉が胸に刺さりました。
「私一人のため」
今まで何度も聞かせて頂いているお言葉ですが、ちょっとドキッとしました。「ああ、そうか、私一人のためなんだ」と、まるで初めて聞いたような感じがしたのです。
同じことを何度も何度も聞いているはずなのに、まるでザルで水をすくっているように私には何も残らない、聞いたそばから何を聞いたのかさえも忘れてしまうのです。
ザルでは水がすくえないならどうすればいいのか?ザルは水に漬けておけば乾くことがありません。法の水に浸す、常に仏法を聞ける場に身を置くことが大切なのだと改めて思いました。
まるっきりしみてこないはずの私にしみてくることがある、それもこのような有難いご縁があるからですね。
南無阿弥陀仏(-人-)
合宿を終えてからしばらく経って
合宿を終えてから1週間以上経過しました。
合宿を終えてしばらくはテンションがあがるので、頭の中を仏法が占めている割合が多くなり、お念仏も良く出る日々が続きます。でも、1週間くらい経つとだいたい普通のテンションに戻って、お念仏を忘れがちな毎日になったりします。
ところが今回は、テンション自体は下がってきているのですが、何か少し違うように感じています。何か身体に刻まれているような感じがするのです。
今回の合宿では体感型のご法話や取り組みが多かったのですが、これが頭ではなく身体の記憶に刻み込まれているからではないかと思うのです。つまり頭で記憶したことを思い出すのではなく、体験したことを思い出すから、なかなか忘れないのだと思います。
光雲先生おそるべし!
もうひとつ紹介したいのが、最終日にふた組に別れて話し合った座談です。
ここでは7名ずつのグループに別れて座談をしました。発言する人は好きなぬいぐるみを抱きながら発言するという、ちょっと変わった座談でしたが、いつもより落ち着いて発言出来るように感じました。
ここでは休憩時間に龍雲先生が他の方に話していた内容を、改めて聞かせて頂きました。
二枚の紙があり、一枚には真剣な聴聞、お聖教を読む、ご法話を聞くなどと書いてあります。もう一枚には念仏とだけ書かれています。あなたはどちらを選びますか?
その場にいた人は全員念仏とだけ書いてある紙を選びました。
でもちょっと待ってください、本当に念仏だけだと思っていますか?いくらなんでもちょっとくらい聞法しなくては…という気持ちがありませんか?
そう、念仏ひとつだけと理解している人でも、案外念仏ひとつだけの方にシフトしていないものなのです。
まずは念仏ひとつだけで救われるというところににシフトを変えてみませんか?
以前の私がこの話を聞いたら「でも、そうは言っても…」と、心細い気持ちになったと思います。でも不思議なことに今は心細くないのです。
これは阿弥陀様の仰ることを聞かないで自分の思いばかり聞いている状態から、阿弥陀様の仰っていることに耳を傾けられるようになったことに通じるものだと思います。阿弥陀様の仰っていることに耳を傾ける、念仏ひとつにシフトチェンジする、ここからが本当の聞法なんですね。
この聞き方が分かると、信前信後に関わらず聞法が楽になると思います。自分の思いや他のことを気にする必要がなくなるからです。
楽に聞けるようになった私は、これから自分の思いを出していく「思いを放す」ことに取り組んでいきたいと思いました。
日本一大きい湖のほとりで合宿を終えて
2泊3日の合宿は無事に終了して、日常生活に戻りました。今朝はふんわりとした気だるさが残っていましたが、それも薄れてきました。
ただ、合宿で過ごした濃厚な時間が仕事をしている時に何度も反芻されていました。頭の中で繰り返される感じですね。
最終日は最初にミニカウンセリングを実施しました。アミダサンガ18では西光義敞先生が始められた真宗カウンセリングを取り入れています。すごく簡単に言ってしまうと、自分の思いで一杯な心だとなかなか阿弥陀様の声が入ってこない。そこで聞法する人の話を聞いて受け止めてあげる。そうすることで、聞法する人は自分の思いを出せるから心にすき間ができる。阿弥陀様の声が入って来やすくなるということです。このカウンセリングの手法は日常生活にもとても役に立ち、何よりもモテると光雲先生は笑いながら仰っていました。
ふた組に分かれて、まず話し手が15分好きなことを喋ります。聞き手はうなずきながら話を聞き、相手の感情に対してリピートします。相手が「辛かった」と言ったら「辛かったんですね」という感じです。15分経ったら途中でも話を終了して、聞き手が5分聞いてみた感想を話します。その後、話し手も話してみた感想を5分話して、聞き手と話し手をチェンジして同じことを繰り返します。
これをやってみるとわかるのですが、相手の話を最後まで聞くということを普段なかなかできていないことに気付きます。そして相手に話をしっかりと聞いてもらい、感情をリピートしてもらうことは「ああ、ちゃんと聞いてもらっているんだな」という満足感があり、気持ちが軽くなるのが分かります。相手の話を聞けるようになるんだなと思いました。
昼食をはさんで午後はふた組に分かれて座談会をしました。ひと組7名で話すと、とても濃い話し合いになりますね。改めて気付くことや、ここが分からないというところをじっくりと聞いてもらってとても充実した座談になりました。
最後に全体で集まって座談…でしたが、残念ながら私は時間の都合でここまでの参加になりました。先生や皆さんとの別れを惜しみながら帰途につきました。
今回の合宿では、いろいろなことが印象に残っているのですが、実は最終日の午後の座談が一番印象に残っているので、また改めて書いてみたいと思います。
日本一大きい湖のほとりで合宿
テントサウナで整ったあと、ビール片手に湖畔でくつろいでいます。
レジャーではないですよ。アミダサンガ18の秋の合宿です。9月22日金曜日から24日日曜日までの2泊3日のスケジュールで、現在は2日目の夕方です。
私は初日の夕方からの参加です。
初日の御法話の後に、面白い取り組みがあったそうです。
参加者の娘さんが目隠しをして、ぐるぐる回った後、光雲先生の呼び声に向かっていくというものです。
娘さんは手探りしながらも、無事に先生の所まで行けました。そうしたら娘さんはお父さんにもやって欲しいとせがんだのです。お父さんも同じように声を頼りに向かっていきます。娘さんは声を出さないながらもお父さんを応援しています。
先生がお父さんに触れられた時、お父さんはビクッとしたそうです。
その取組みの後、皆さんで感想を語り合っている時に私は参加することができました。
2日目の今日は、二河白道のお話でした。面白いのは、その後参加者で二河白道のお芝居をしたことです。
広間の中央にトイレットペーパーで白道を作り、両側に赤い座布団と青い座布団で火の河と水の河を作ったんですよ。そしてふたグループに別れて即興でお芝居をしたのです。
面白いですね、阿弥陀様の呼び声も、二河白道もこうして体験(?)してみると、何かしら気づきがあるのです。あの二河白道の絵が三次元になって体験出来ることは、新鮮な体験でした。
この後バーベキューとキャンブファイャーがあります。楽しみです(^^)
あ、レジャーじゃなくて合宿ですからね。